4月になり、会社にも新人が入った。この原稿をパソコンで打ってくれたのも、今春卒業したばかりのAD君だ。新しく映像制作にかかわる人たちの参考になればと思い、古い原稿を探し出したのである。これを書いたのは、今から20年前。当時、小生はフリーランスの演出家だったが、フリーとは失業する自由も意味する。しばしば訪れる暇な時間をもてあまし、いったい映像とは何か、演出家の仕事とは何か、考えてみようと、書き始めたものだ。基本的な考えはいまも変わっていないので、ご一読ください。
あらゆる映像は、カメラというメカニズムによって切り取られ記録された現実の時間と空間の断片である。映画も、テレビも、映像作品はどれも、映像という現実の断片から成り立っている。ニューズやドキュメンタリーはもちろん、架空のストーリーを描く劇映画でも、役者がセットで演技をするという現実がカメラによって記録されるのである。
記録された現実の断片--映像は、やがてモンタージュされ、現実のそれとは異なる固有の時間空間を形成し、作品と呼ばれる視聴対象物となる。シナリオは作られるべき作品の設計図であり、そのシナリオに基づいて現実を切り取り記録する作業が撮影、撮影された映像を取捨選択して繋ぐ作業が編集である。演出家は、それらの仕事を通してあらかじめ意図した効果を観客に喚起し得るように作品を導く。
フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』は、映画作りの過程を描いていて、演出家の役割を考える上でも面白かった。限られた予算とスケジュール、俳優たちの身勝手な振る舞い、映画づくりにつきもののトラブルがトリュフォー自ら演じる監督を悩ませる一方、あらゆるパートのスタッフが彼に判断を求めにくる。小さな小道具1つ、衣装のデザインに至るまで、そこではあらゆる作業が監督のゴーサインによって進行するのである。では、なぜ演出家は映画づくりのなかで、絶対的な判断者となるのだろうか。
ふつう日本語や英語では演出家を、「監督」、「ディレクター」と呼ぶが、フランス語では「レアリザテュール」つまり、「実現する人」と呼んでいる。ここで実現するとは、もちろん作品のことにほかならない。そして、当然のことだが、映画づくりの過程にあって作品は決して、その全貌をあらわすことはない。そこにあるのは、演出家の脳裏に描かれる未来の実現すべき作品のヴィジョンだけである。だからこそ、あらゆるパートのスタッフは演出家に判断を求めるのだ。とすると、演出家とは自らのヴィジョンに基づいて作品を作る人、あるいはその権利を与えられた人ということもできるかもしれない。
撮影現場で、演出家は、現実の時間と空間をもった実体としての被写体を前にして、未来の実現すべき作品のヴィジョンを思い描く。そして、どのように現実の時間と空間を切り取り、未来の作品のモンタージュに必要な映像をフィルムやテープに定着させるかを判断するのである。
もちろん、作品の性格によって、そこで演出家の果たす仕事は異なる。それが劇映画であれば、自らのヴィジョンに則して、役者の演技やセットなど被写体の現実を操作するし、それがドキュメンタリーであれば、被写体の現実に則して自らのヴィジョンや構成に修正を加えながら、一過性の現実を記録してゆくことだろう。
しかし、いずれにしろ演出家は想像のヴィジョンと現実のヴィジョンとの間の往復運動を通して、仕事をすすめてゆくのである。そして、そこにこそ演出家という仕事の本質がある。さらに言えば、映像作品をつくるという行為の本質がある。
だが、その行為のメカニズムを分析することはむずかしい。シナリオの意図、1人の人間としての演出家の事物に関する関心のもち方、スタッフとのかかわり、たまたまそうであった被写体の条件など、あらゆるファクターが複雑に、個々の作品にはからんでくるからだ。
ただ、演出という仕事の本質が現実と想像のヴィジョンとの間の往復運動であるとすれば、2つのヴィジョンの間の緊張感が高いほど、結果として作品の質が高くなるということだけは言えそうである。それは具体的にはどのようなことか、ヒッチコックの言葉を引用しよう。
「テーブルの向こうに男が立っている。男とテーブルを同時にフレームにおさめるために、テーブルを高くするかわりにカメラをひいてしまう。セットの中のものすべてが、そのまま、そっくりスクリーンに映ってみえると(その演出家は)思い込んでいるらしい。」(ヒッチコック、トリュフォー『映画術』)
どうやら、ヒッチコックに非難された演出家は、セットという目の前にある現実にとらわれて、自らの実現すべき作品についての明確なヴィジョンをそのとき忘れていたらしい。これは1つの具体例にすぎないが、こうした不注意な妥協の連続がスペクタクルとしての映画の緊張感をそこなうというのは当然、予想できることだ。
また、ドキュメンタリーの場合、自らのヴィジョンに固執しすぎれば、現実を発見するというドキュメンタリーの本質が失われてしまうだろう。ここでも、実現すべき作品のヴィジョンや見直しが、現実を発見させ、新たなヴィジョンや見通しを創りだしてゆくような想像と現実の緊張関係が、作品の質を支えるのである。
このように演出家は、空間を切り取るフレーミングや、モンタージュによる時間操作という映像表現ならではの手段を介在させながら現実と想像のヴィジョンの間を往復しつつ作品をつくりあげてゆくのである。
いま、読み返してみると、なんだか固い文章で恐縮だが、往々にして若いディレクター諸君はやたらにテープを回す。それは、いま撮りつつある映像とつくり上げるべき作品との間のフィード・バックが不足しているからではないか。記録映画の先達、オランダ出身の映画監督ヨリス・イベンスは、スペイン市民戦争の記録映画を撮ったおり、「編集台の上で捨てられるようなカットを撮るために、カメラマンを殺すわけにはいかない」と言っている。
またヒッチコックが「現実から退屈な時間を取り除いたのが映画だ」と言うように、帰するところ、1本の映像作品は、それがフィクションだろうが、ドキュメンタリーだろうが、現実にはない濃密な時間と空間をもった1つの構造物だ。頭のなかで常にその構造物をイメージし、想像のフィルム(テープ)を回し、つくりつつある作品にとって何が必要か、考える訓練をすることをお勧めする。以上、演出家の仕事の一端を考えてみた。
ところで、文中の「アメリカの夜」とは、ピーカンの日に絞りを極端にしぼって撮影し、あたかも夜のシーンのように見せる映画の手法で、アメリカでは、「day for night」という。西部劇でおなじみの手法だが、日本では「擬似夜景」と呼び、フランスでは、それがアメリカで生まれたため「アメリカの夜」と呼ぶ。トリュフォーは、「映画とは造りもの」だという意味をこめて映画のタイトルにしたのだろう。
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